穂積城

 古い史料(摂津志)によると、茨木市中穂積の春日神社境内になっている。
 小高い山林一帯が、穂積城として伝えられっている。

○ 大阪府全志 -- 『塁堡址、 春日神社中穂積、塁堡の址は字地に『城の堀』と称するなり。
  『摂津志』に塁堡の址ありと記せるは、是れ、その所ならんか』

○ 松岡洲泉著 『城を訪ねて ― 茨木の部』 に、穂積城の頁が掲載されている。
   『城名 ― 穂積、 所在地 ― 中穂積二丁目、北春丘一丁目。 形状 ― 平山』
   『築城年・城主・興廃 ― 不詳。 所見 ― 史料散見するも城郭確認できず。』
   城の樋、城の堀の地名残る。

中穂積二丁目 岡村俊一氏・長沢五三六氏の話
○ 『城ノ堀』の土地は、昔から湿地帯であった。

○ 春日神社の山が穂積城(塁堡)の跡であったとする話は、今までに聞いた事はない。

○弁天宗になっている山は『さんじょう山』又は『さんじょ山』と呼んでいたが、見付山とは言わなかった。

○今の弁天さんのある山に、昔は小野原からの杣道があって、村人は牛の背に荷をつけて山越えをしていた。
  その道のことを『殿さん道』と言っていた。

(注) 『さんじょう』は『山城』の意にとれる。また、『見付山』は城の見張りの番兵がいた山のことである。
 

● 穂積郷(飛鳥時代、奈良時代の律令体制時代 ― 700年 〜 800年頃)を支配していた
  穂積氏の館(砦)があった。 

● 『垂水東牧』 平安時代、鎌倉時代 ― 800年 〜 1300年を守護する砦があった。

● 室町時代、戦国時代(1300年 〜 1570年頃)における、戦略上の一時的な塁堡(砦)が作られた。

以上のことから、この穂積の山地は茨木地方を一望できる格好の場所であるので
要地として利用されたことが考えられる  
     

               
茨木市教育委員会 発行  わがまち茨木 城郭編より

現在、中穂積の春日神社境内になっている小高い山は、茨木の町を一望できる格好の場所であり
昔から何らかの要地として利用されたことが考えられます。

『大阪府全志』によると塁の堡址 春日村中穂積 塁堡の址は字地に『城の堀』と称するあり。
『摂津志』に塁堡の址ありと記せるは、是れ、その所ならんかと書かれており、
城跡(砦)があったことが伺われます。

ただ ”城の堀” という小字が今の済生会病院の辺りで、その西側の小字 ”山ノ下” まで上がり坂が続き
そこから山上までの間に土塁状の平地があり、ここに城としての何らかの施設があったとも考えられています。

さらに山上は広い平地となっており、これらの地形や地名などからみて、
何らかの塁堡(砦)が存在していたことが想定されます。

                               
茨木市教育委員会        案内板より  

この石段を上がれば、同じような石段が……

所在地 大阪府茨木市中穂積・北春日丘一丁目
      見付山一丁目附近一帯

≪丘城≫

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登城日 平成十九年(2007)十二月六日  作成日 平成十九年(2007)十二月九日 

上の石段の途中に石碑が
寛政七年九仰四月

最上段の本丸跡

穂積城跡の案内板と城碑

春日神社境内の紅葉!

12月ともなると日が暮れるのが早いので前日から所在地を確かめ、仕事を終え春日神社に車を走らせる。
茨木駅周辺は車が渋滞するので避け、わき道を縫うように春日神社を目指す。

山麓まで来たが、駐車場が見当たらない!。 仕方なく、石段横に車を停め 一気に石段を駆け上がる。
だが、同じような石段が待っていた! その石段も駆け上がると、春日神社の本堂が目の前に見えてくる。
その左横に、穂積城址の案内板と城碑がある。本堂の右横に井戸跡もあり、その後に一段高く小山が確認できた。

本丸跡と称している所で、10m]15m程のあまり広くは無いが、戦国時代はここからは360度の展望ができる。
撮影を終了して周辺を散策すると、春日神社の南側に公園があり、駐車場が完備していた!
要するに、山上まで車で上がれると言うことになる。で、麓には駐車場は無い!。

車道を歩き、車の置いてある場所まで歩いて行くと、住宅街の中を通り抜ければ
山上まで車で上がれることがわかった。

駐車場は無料で20台。公園にトイレ完備。

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