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安威砦

安威砦の遠望

安威配水場の敷地の駐車場から案内板を見る

安威砦の土塁跡

安威配水場の敷地内からの展望

安威砦の碑

このあたりは、東西にのびる花園山丘陵の東端にあたり標高89mの
通称『天神山』とも『城の森』とも呼ばれているところですここに北から南にかけて
三箇所の郭が並び、その周囲に堀などの施設をもった城(砦)があり
現在も東西50m南北100mの間に遺構を残しています。

築城の時期は、鎌足の城とも楠氏が築くともいわれていますが
いずれも後世の付け足しと思われ、詳しい事はわかっていません。
『足利季世記』大永六年(1526)桂川合戦の条に『山崎の城落チグレバ・
摂津上郡芥川城、茨木城、安威城、福井城、三宅城等聞落ニシテ
明引くケル』と記されており、かなり慌ただしい当時の様子をうかがわれます。

廃城の時期については、安威弥四郎の子で秀吉の被官として重要な職にあった
五左衛門了佐が、天正十四年(1586)に茨木城主となった頃と考えられますが、
その後、豊後竹田(大分県)の中川家の家臣として残った安威氏の系譜によると
了佐の子・勝宗は安威城主であったとの記載があるようです。

                                 現地案内板より

花園山丘陵の東端が安威川に切られて北のに向かって隆起した標高89m
平地よりの比高40mの通称天神山とも城の森とも呼ばれる山頂に築かれた
南北に軸を置く連郭式の城で、現在でも東西50m、南北100mの間に遺構を残している。
南北に並ぶ三ヶ所の郭を主体とし、その周囲に腰郭を配したもので南より一、二、三と
仮称して説明する。

第一郭は径14mの円形プランを持ったもので、比高5m、裾の西から南にかけて
小規模な空堀と土塁をめぐらし、東南面には、小郭を配し、それより南に向かって
二条の短い堅堀がでている。この郭の北に、深い空堀によって画された当城の主郭に
当たる第二郭がある。

堀底よりの比高6m、堀底には一基の井戸があり、以前は若干の湧水がみられた。
堀は、東斜面に賢堀となって伸びている。郭の上部は20m四方の方形をなし
東を除く三方に土塁を構えている。出入口は、西北隅に小平地を伴って西の腰郭に
向かって開いている。

郭内は、円形に礫の集積された部分がある。この北に浅い空堀を介して20m四方位の
ほぼ方形プランがあり、これを第三郭とする。
西・南の二方が土塁に囲まれ、郭内北よりに長さ7m、巾4mの楕円形に礫が集積されている。
この北側に3m程下がって小郭が造られ、三郭と小径によって結ばれている。

小郭から道は東に下って東側の腰郭へと通じている。腰郭は広い所で巾5m、ほとんど3m位で
三基の郭の東に連なっており、一郭と二郭との間の空堀の部分は土橋によって結ばれている。
西側のそれは腰郭と呼ぶより、やや巾の広い空堀といったようなもので、第一郭から続く堀が
土塁を伴いつつ北に延び、第三郭の端から賢堀となって北の斜面を30m程下がっている。

この郭にも一ヶ所礫の集積がみられる。はかに第一郭の西方60m位の尾根の平坦面に
2mⅩ1.5mの井戸が残っている。山頂にも拘らず、山手台が開発されるまでは常に湧水が見られ
過去40年間渇水した事は一夏だけだった。
第三郭の郭外西斜面に若干の陥没地が見られるが、性格は不明で近世の墳墓の可能性もある。

下への通路としては、第一郭と二郭との間の賢堀附近と、第三郭下の小郭より東側の腰郭に
通ずる道がつづら折となって山下に延びるが、いずれも途中で消滅している。
山内には杣道が多く本来の通路の断定はし難い現状である。

築城の時期は、里伝で鎌足の城とも楠木氏築くとも言うがいずれも後世の付け足しであろう。
第二郭と三郭との間の空堀附近に明らかに修築の痕を残し、搔出した土をそのままにするなど
かなり慌だたしい当時の様子をうかがわれる。投てき用の礫と思われるものが整然と残ることなどおは
『足利季世記』大永六年(1526)桂川合戦の条に『山崎の城落チグレバ・摂津上郡芥川城、茨木城
安威城、福井城、三宅城等聞落ニシテ明引くケル』の記事が連想される。

廃城の時期については、弥四郎の子で秀吉の被官として右筆の職にあった五左ヱ門了佐が
天正十四年(1586)摂津守に任官して茨木城に移った頃と考えられるが、豊後竹田の中川家の家臣
として残った安威氏の系譜によると、了佐の子勝宗は安威城主であったとの記載があるようである。
        

                  茨木教育委員会 わがまち茨木 城郭編
より

私見

登城日 平成二十年(2008)一月五日  作成日 平成二十年(2008)一月十三日

泉原城よりこの安威砦にやってきたが、安威川の前方に天神山が見え、その頂上付近にタンクが見えた。
山手台を通り府道46号線に乗り、橋を二つ渡る。橋を渡って、250m程進むと右折する。
突き当りを左折して進む事400m右に急勾配の一直線の坂道がある。この坂道をタイヤをスリップさせながら
登って行く。登って右カーブをした突き当りに案内板と城碑が見えた!。本日は、工事中のため入口が開いていた。

案内板の前に、一台停めるスペースがあるので、そこに車を停め案内板を読んでいると、『そこは工事用の車が
大回りするのに邪魔になりますから、工事車の駐車場に移動してください』と現場監督さんに言われ、移動する。
門は17時に閉めますので、それまでに出車をお願いします、と言われ時計を見ると2時間余りの散策ができた。
案内板の後の土塁・空堀・井戸跡などを確認して、監督さんに御礼を言って、門を出たのが4時45分。
1時間30分の、まったりと散策できました!。

所在地 大阪府茨木市安威三丁目
築城者 安威氏

№238

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