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安威城

安威城の所在地・安威二丁目12番

お話を聞かせていただいた○○様邸

街道沿いに建ち並ぶ風情のある家々

公民館前の案内板と城碑

築城年 永正1年(1504)
築城者 安威孫四郎

所在地 大阪府茨木市安威二丁目12番

大字安威に所在する。土豪安威氏よって築かれた城砦で、字中春日附近の居館跡と詰の城である
花園山頂の砦より成り立っている。安威氏出現に至るまでの地形をみると、摂丹国境の水を集めて南流する
安威川が三島平野への出口右岸に形成した河岸段丘上に集落が立地する。

明治の頃に打製石斧が採集され、附近丘陵には縄文期とみられる石器の散布があり初田からは後期から晩期に
かけての土器も発見されている。次の弥生文化頃になると西垣内附近に遺跡の存在が確認されている。
村の西北丘陵には各時期の墳墓が営まれ面白いことに各遺構が時期別に位置を異にし互に重複しないことである。

即ち、将軍山の南半には古墳発生期のいわゆる墳丘墓が集まり、北半は中世以降現在に至る墓地となっている。
北部花園丘陵西半は前期から中期にいたる古墳が、東半は横穴式石室が主流となる後期古墳が
群集するといったぐあいである。このことは、当地の住民の主流が弥生時代以降連綿としている結果かもしれない。
将軍山南端に存する将軍山古墳群は、性格を異にすると考えられるので除外する。

古来、中臣藍連の居住地に比定されており、この古墳群は同連一族の墳墓であろう。
初期の古墳の規模からすれば、あまり有力な氏族であったとは考えられず在地発生した氏族が
ある時点で中臣氏に吸収され、居住地の名を冠して中臣藍連としていったものだろう。
藍野は、芥川と安威川との間に開けた山麓平野を中心とした広範囲を指す地名と思われ、藍はあいの単なる当字であろう。
あいの地名が当地に残ったのは地名を冠した藍連の居住地であったためであろう。

その後は、余り良くわからないが攝関領となり、のち興福寺関係の領地となった藤原氏と
縁の深い土地柄で、現在当地に残る伝説はすべて鎌足に関係ずけて語られている。
そうした中に、安威氏は発生したのである。
これはあくまで推測であるが、在地勢力の中より発生したとみるより領主支配体制の中で
司った者が下向土着し、在地領主化していったとみるのが自然ではなかろうか。

安威氏の記録が発現するのは、『六波羅密寺文書』貞治二年(1363)の『御所近習連署奉加状』で
中に能勢、芥川等に交って『あい沙弥性儀?』の名がみられる。
その後、幕府奉行人、次郎右ヱ門某や左ヱ門入道性威、新左ヱ門尉詮有がみえ、下って大永頃の
細川氏争乱期には、右近太夫は細川晴元より安威惣領職を安堵されており、又四郎等の名が文書等に散見する。
彼等の去就は戦国争乱の渦中にあった中小土豪の姿をよく示している。以上のことから安威氏は在地領主として
鎌倉後期頃に在村したとみてよく、居館の成立もその頃とみてよかろう。

まず居館からみると、比高6m位の段丘崖が河流に沿った南北方向から西方に向を変える隅角を利用して構築されている。
『大阪府全志』によると、東西100間、南北150間の規模を有するとされ、『東摂城址図誌』には小字城垣内とされる
南北55間半、東西22間余の地域に御殿台と呼ぶ土檀の存在を伝えている。
以上からして当館が重郭式のものであったと考えられる。現在、中央郭附近は完全に宅地化されその痕跡すら
止めないのであるが、明治の仮製2万分の1の地形図によると、城跡の中央と思われる附近に矩形に等高線の
高まりが見られ、これを現在の地図に落としてみると、安威小学校敷地東側道路と集落中央を南北に走る道路との間となり
面積も図誌記載のそれとほぼ一致することが認められた。

そこで村の最古老で故実に詳しい吉田昇一氏に尋ねたところ、元は少し高くなっていたとのことで、中央道路に沿って
流れる溝は城の堀であったと伝えられ、側面も現在のような石積みではなく土坡であったようで、中央郭は堀で
囲まれていたと思われる。外郭は、前記のように東と南は段丘崖を利用しており、一部失われた部分もあるが
現在もその多くが竹林となって旧地形を保っている。台地の裾には水田用の水路が通っているが、この部分に
堀が存在したかは否かは不明である。東北の台地縁線に沿って長さ150mほどの土塁の残存が認められる。
地点によって規模に差がみられるが、北側の道路に沿って残る部分では巾5m、高さ1.5mを計る。

東北の隅には円形に隆起した矢倉台状の個所もみられる。
南側にも一部塁の残存が認められるが北側ほど保存状態はよくない。
東南の一角には城の井戸と伝えられるものが残り、現在も附近の住宅の用水として使用されている。
元は石積みの円形の井戸であったらしい。湧水面は比較的高い。西方の外郭線は全く不明である。

全志と図誌の記載によると、内郭と外郭の線が西方で重なることになる。そこで小学校西側の地形を調べてところ
敷地を境として土地の低下がみられるので、一応この線を外郭の西限と考えてみた。今後の調査に期待する。
北側は、土塁の残存線の延長が学校北側の道路と一致するので、これが北限とみられる。
これでいくと館は250m位のほぼ方形となり、その中央に100m]70m位の内郭を持ったものとなり、城館として
大きな規模のものであったようである。館への入口については、南北道路が外郭線を切る附近がそれに当たると考えられ
南は溝に沿う坂口がこれとみられる。西側も現在の道路の線附近に存在したと思われる。
                                     

                          茨木市教育委員会発行 わがまち茨木 城郭編
より

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登城日 平成二十年(2008)一月五日 作成日 平成二十年(2008)一月二十六日

安威砦を後に、坂道を滑り落ちるように下りて、突き当りを右折する。次の三叉路を左折すると
そこは昔の家並みが迎えてくれる現在とは思われない風情豊かな家が並ぶ街道を進むと
灯篭・道標・お地蔵さんと、江戸時代にタイムスリップしとような錯覚を覚える

その中の一軒のお家を尋ねてみた。すると、その御家の奥さんが『公民館まで案内しますよ』と言われ
道中お話が聞けました。そのお話のなかで、印象に残った言葉が『昔の家は、クーラーが無くても涼しいしいけど
一度は今風の家にも住んでみたいわ』なんて、おっしゃっていました。公民館の前で、案内板が風化して根元より倒れた。

今の案内板は鉄パイプで、案内板は今までのを使っていると説明をうけました。案内板のうしろの石碑のようなのは
祭日に国旗を上げる支柱で、そのロープをその石に縛っていたとその横に3年前までは大きな木が植わっていたが
枝が張りすぎるので根元より切り、新しくハナミズキを植えたともおっしゃっていました。
で、『ゆっくり見ていってくださいよ』といって、手押し車を押しながら帰られました。

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