№292

昨年訪れたのは夜23時を過ぎてしまったので、今年はリベンジでしたが20時を過ぎて
しまいました。昨年の写真と同じ位置から撮りましたが、区別がつかないですね。
今回は松平神社境内に入ってみました。境内にある三斎池から天守台地へは50cm程の
石垣の段差があります。古図で本丸を横切る線が引いてありますが、このことでしょうね。
どうやら本丸は、上段、下段に分かれていたようです


これで九州の城巡りは終了しましたが、来年は明るいときに中津城を訪れたいです
!

登城日 2009年2月6日  2010年2月7日  作成日 2010年4月27日

2010年2月7日再訪

土塀沿いからの天守

土塀沿いからの二重櫓

下段の本丸

三の丸から本丸へ入る水御門

天守の手前に三斎池がある

上段の奥平神社境内からの天守

本丸から天守をみる

今年2010年2月7日の写真

昨年2009年2月6日の写真

中津城は天正十五年(1587)七月、豊前六郡十六万石(一説には十二万石)で入部した
黒田孝高(如水)によって山国川右岸の河口に築かれた水城である。
黒田氏の入部によって、築城郡域井谷の宇都宮鎮房は伊予今治十二万石へ転封となったが
宇都宮氏は鎌倉時代から約四百年、十八代続いた名家であり、父祖伝来の地を去ることを
嫌い、豊臣秀吉に朱印状を返して豊前国内に所領を願い出たのであった。

このため、一時、黒田氏による宇都宮氏の本城・芽切城受け取りに応じなかった鎮房も
新しく豊前田川、企救二郡の領主となった毛利勝信が仲に入り、折りを見て旧領安堵を
秀吉に願い出るということで、開城して時を待ったが、一向にその気配がないところから
ついに芽切城を奪い、実力行使で本領安堵を得ようという拳にでたのである。

宇都宮市の反乱は、黒田氏の中津築城で加勢を命じられて不満をもっていた諸豪族も呼応
して、八千八百余の大勢力となった。黒田氏は秀吉に急報し、中国の毛利輝元より五千の
兵が派遣され、黒田長政を大将とする二万二千の大軍で城井谷を攻めたが、山岳戦を得意
とする宇都宮のために大敗した。そこで如水は長期戦に持ち込み、向城(付城)を築いて
芽切城を孤立させ諸豪族を個別に攻撃する作戦に変更して天正十六年(1588)中には宇都
宮氏を除く反乱はすべて平定された。       日本の名城・古城事典より

《小犬丸城》

《扇城》

中津城

築城者:黒田如水 天正十六年(1588)
所在地:大分県中津市二ノ丁

《丸山城》

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