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多聞城


歴史  多聞城は、松永久秀が大和国支配における南都掌握の拠点として
永禄三年(1560)に築いた。五年後の永禄八年(1565)にはポルトガルの
宣教師アルメイダが城を訪問し、その様子をヤソ会のイルマンに書き送っている。

それによれば『宮殿はことごとく杉
(実際は檜)で造り、その香りが中に入った者を
喜ばせる』、『壁には昔の歴史を絵にして描いてあり、絵を除いた他の部分は
全て金箔がはってある』、『庭園および宮廷の樹木もただ美しいというほかない』
などと記され、かつての城内の姿がうかがえる。さらに後の破却記事によって
『多聞山四階ヤクラ』の存在が知られる。

松永久秀はこの多聞城を拠点として南都や大和各地にて軍事行動を展開するが、
元亀二年(1571)に織田信長に叛旗をひるがえし、翌元亀三年には多聞城が
筒井順慶軍の包囲を受けた。
しかし松永久通が和議を申し入れて合戦には至らなかった。

しかし天正元年(1573)に信長が足利義昭を追放して室町幕府が滅亡すると
松永久秀は武田氏と通じてまたも叛旗をひるがえし、信長軍が多聞城に迫った。
松永久通は城を開いて信長に明け渡し、城番として明智光秀、柴田勝家らが入った。
翌年には信長が多聞城に立ち寄った。

信長は天正三年(1575)に原田直政を大和国守護に任じて多聞城を与えたが、
翌年の大坂本願寺攻撃作戦で原田直政が戦死したため、筒井順慶に大和国の
軍事権を任せ、多聞城の破却を命じた。『多聞院日記』によれば天正五年(1577)
に『多聞山四階ヤクラ』が壊されて『大旨崩了』となり、
殿舎の多くは京都二條城へ
移されたが、
石垣などは残っていたようで、天正七年(1579)に筒井順慶が
筒井城の修築を進めたおりに多聞城跡の石を運ばせている。

城跡は江戸時代には奈良奉行所の与力、同心の屋敷地となり幕末には練兵場として
使用されたが、昭和23年に若草中学校の建設予定地となって大部分が整地された。

                                  
  奈良県教育委員会 

築城者 松永久秀
築城年 永禄三年(1560)

所在地奈良県奈良市多門町
標高115b  比高30b
遺構 郭、空堀、堀切、土塁

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《多聞山城》

雰囲気を盛り上げる土塀

土塀を過ぎ、石段の右にある城碑

登城道が車道になっている

堀切跡

土塁跡

登城日 平成二十年(2008)九月二十八日
作成日 平成二十年(2008)十月二十五日
編集日 平成二十二年(2010)九月五日

予定では奈良公園に寄って多聞城となっていましたが、奈良公園の駐車場が満車で
この多聞城を優先しました。多聞城跡は、奈良市北部に位置する佐保山丘陵にあり、
現在は若草中学校、仁正皇后陵、聖武天皇陵などになっています。近鉄奈良駅から
北へ1.2q。国道369号『県庁東』信号から800m程北上した『転害門前』信号を
左折して、県道104号に入ります。200m程西進した路地を『右角に衣川鍼灸医院』
右折し(若草中学校の案内あり)、300m程北上(直ぐにV字型になっていて、
その公民館を左に進む)すると正面に若草中学校の正門に突き当たります。

その若草中学校の正門をまっすぐに入った先に城址碑がありますが、学校の敷地内に
入ることはかなり慎重にならないといけません。事前に連絡をいれらせてもらいましたので、
安心して訪問しましたが日曜日でしたが、正門は開かれていました。正門を入って右手に
中学校建設に際して出土した石仏が祀られているが、かつては石垣に使われていたものと思われる。

そのまま進むと、石段の右手に中学校卒業生が建てた城碑があります。
この石段も中学校建設の時につくったそうです。
現在残る遺構としては丘陵地の東部に堀切が道になっている地点と、中学校裏手に堀跡だった
ところを見ることができるようです。

校舎側と運動場の間(道路)に堀切があり、石段がありますので下りて堀切から城郭を見上げると、
ここが多聞櫓の呼称の発祥であり、四層櫓があった城跡なんですね。と、しみじみと思いふけました。

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