大和高田城

築城者:當麻為貞 永享四年(1432)
所在地:奈良県大和高田市旭北町

№433

高田城を築いたのは永享四年(1432)、当麻(高田)為貞の世とされるが
築城はもっと早かったという説もある。この高田氏は、高田城のほかに
土庫・有井城を備え、大和における有力な豪族を自負していた。

もともと高田城は、大和盆地の南部を占める要衝に位置していたため、し
ばしば合戦に巻き込まれたが、文正元年(1466)には、畠山義就・越智家
栄連合軍に攻められて落城、復旧して間もない文明七年(1475)には、
またしても越智氏に攻められ落城の憂き目をみる。その後の高田氏は、筒井
氏の援助を得て力を復したが、以後、約百年にわたって筒井氏と友好関係を
保っていく。

この両者に破綻が生じるのは、永禄八年(1565)十一月のことだ。
それというのは、そのころ筒井順慶は、久秀に不意をつかれて筒井城を失い
布施城へ逃れていた。このため高田氏は、やむなく久秀方に寝返った。

高田の裏切りに激怒した順慶は、布施氏とともに高田城を襲い、城下を焼い
たほか、城の回りに向城を築いて巻攻めにしていく。以後の高田城は、四年
の久しきにわたって筒井・布施軍の攻撃にさらされたが、それを高田氏はよ
く支えた。厳しい城の囲みが久秀軍によって解かれたのは、永禄十一年九月
である。だが高田当次郎は、のちに久秀が滅び、筒井順慶が大和の主におさ
まって間もない天正八年(1580)十月、切腹を命じられる。
                     日本名城・古城事典より

常光寺山門の手前に踏み切り

戦国当時の榎木

高田城址の石碑

城跡にある楠木と城碑

城跡の近くの池に水鳥

常光寺の本堂

常光寺の駐車場

竹之内街道の終点近くに片塩町交差点があります。その交差点を過ぎ踏み切りの手前の
細い道を左折して三つ目の筋を右折し、踏み切りを渡り、片塩小学校に突き当たり
右折して正面に常光寺の裏門がみえます。その一角が高田城跡で車二台は停められます

高田城碑とその左側に説明板があり、一番奥に戦国時代から植わっている楠木が
堂々と空に向かった伸びているのが印象的でしたね。

駐車場は、常光寺の駐車場も空いています。黒い鉄製の門はいつも閉っていますが
野犬が入らないようにとのことでしたので、車を停めて門も閉めてくださいと
おっしゃっていました。

登城日 平成22年(2010)10月17日  作成日 平成22年(2010)11月03日

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