№381

築城者:財部土持 平安末期
所在地:宮崎県児湯郡高鍋町

高鍋城

《舞鶴城》

《平山城》

高鍋城は、かって財部城と呼ばれ、平安時代末期、土豪土持氏によって築かれたと
いわれる古城である。戦国時代は伊東氏の所領となったが、天正五年(1555)島津氏に
敗れ、島津領になり同十五年には豊臣秀吉九州平定に投降した筑前秋月城の秋月種実が
三万石で転封。種実は初め櫛間(串間市)にあって、二代種長に時にこの地に移り
城を城を大修築、近世城郭としての形を整えた。

三代種信の時の延宝元年(1673)財部を高鍋と改称、大修築し、以後、高鍋藩秋月氏
三万石の居城となり、明治維新まで続いた。  
日本の名城・古城事典より

朝5時40分上手く撮れない

明るくなってきて納得かな?

大手門(現在の舞鶴神社)

5時過ぎ高鍋の宿で早々と朝食を済ませ、真っ暗駐車場の車に飛び乗る。
ナビを頼りに高鍋城に車をすすめる。が、ナビの示す所は崖の上。
崖の周りを進んでいくと、舞鶴神社の境内に案内板が確認された。
広い駐車場に車を停め、ヘッドライトを案内板に照らせ(左の写真)撮影開始。
少し無理がある。少し時間を待ち(中の写真)シャッターを切る強引に納得。
大手門(右の写真)を撮り、高城へと急ぐ
!!

高城川の合戦場

大友軍 六万名 VS 島津軍 五万名

1578年11月10日~12日

11月10日、財部城にいた島津方4300の兵が夜10時ごろに城を出陣し、深夜
大友方の本陣と松山陣の間にひそかに入り込んだ。
翌11日の昼間、島津方は大友方の兵が番替のために往来しているところを急襲。
まったく油断していたところを突かれたため大友方は乱れ、松山陣が焼き払われた
                        戦乱の日本史より

登城日 平成二十二年二月七日  作成日 平成二十二年三月十二日

高鍋城から高城に向かう途中、小丸川(高城川)の土手に上がったとき
小丸川のこちらの河川敷から対岸の河川敷に一本の道があった。
水かさが増えれば当然通れない道ですが、初めての経験でした。
小丸川を渡り、高城の麓に高城川合戦場跡のカンバンを発見


急ブレーキをかけ、バックする! 現在は広大な田畑になっていますが
当時の壮絶な戦いをを思いながら、高城を目指す。

高 城

築城者:新納時久 鎌倉初期
所在地:宮崎県児湯郡木城町

№382

高鍋町の北西、小丸川に臨む新納山の先端にある高城は、建武二年(1335)
島津氏の一族、新納時久の築城といわれる。三方が急崖で、西方には山並みが続き
七つの空堀を備えるなど、難攻の山城であった。日向国の中央部に位置することから
中世には、戦略上重要な拠点とされ、合戦の舞台となった。特に知られるのは二度の激戦で、その一つは天正六年(1578)南進を謀る大友宗麟の大軍による攻撃である。

もう一つは、全国統一をめざす豊臣秀吉と、九州制覇を謀る島津氏とがぶつかり合った
天正十五年(1587)の合戦である。これは九州制覇を目前にしたい島津氏の攻略に抗し
きれなくなった豊後の大友宗麟が、秀吉に助けを乞うたことによって秀吉の大軍が高城
を攻撃。                日本の名城・古城事典より

本丸にある城碑

時計台

本丸から小丸川を観る

登城日 平成二十二年二月七日 作成日 平成二十二年三月十二日

小丸川を渡り、高城合戦場跡を通り大回りをして高城にきました。
空堀に架かる橋を幾度となく渡り本丸近くの駐車場に6時過ぎに到着。
本丸から小丸川が確認でき、合戦場の様子も手に取るようにわかる。

《山城》

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