由来書のまえの登城道を左に上がっていくと、右側に墓地がありました。
右の道を渦巻き状に上がっていくと、頂上にお寺があります。
この墓地は、三つに分かれていて、奥から戦国時代・明治前後・大正時代以降と
なっていましたがカメラを構えてシャッターを押しましたが、おりません
Σ(+ω+);

少し下がりシャッターを押すと押せますが、墓石のみえるところは何度か挑戦しま
したが押せませんでした。再訪できる時は、何台かのカメラをもっていきます。

この上が墓地で、ここではシャッターが押せました

登城道のまえにある由来書

土持氏は、平安末期から鎌倉時代に勢力を伸ばし、日向北部で最大級の豪族となり
南北朝時代には北朝方の有力豪族として戦功を重ねた。 日本城郭体系より

築城者:土持氏 年代不明
所在地:宮崎県延岡市古城町5丁目

日中も薄暗い本丸

堀切に架かった本丸に通じる土橋

このまえに車一台が停められます

門川城の案内板のまえに一台停められる駐車スペースがあります。
城跡の前の民家は空家のカンバンが貼ってありましたので二台は停められそうです。
案内板の後に見える細い道を駆け上がると、堀切に出ます。土橋が架かっていて
土橋を渡ると森林になっている本丸に入れますが、石垣は見当たりませんでした。

登城日 平成二十二年二月七日   作成日 平成二十二年三月二十日

登城日 平成二十二年二月七日   作成日 平成二十二年三月二十日

№384

門川城は文明年間に日向の伊藤祐堯が築城されたと伝わり、日向三城と呼ばれ
祐堯は三十六歳で家督を継ぐと、康正2年に土持家と開戦、これを滅ぼして
九州全土にその名を轟かせた伊藤家を代表する城主でも有ったが、豊臣秀吉の
九州征伐で門川一帯は延岡領となり、元和元年に一国一条令により廃城となった。
                毎日新聞社の火燃ゆる強者どもの城より

№383

築城者:伊東祐堯 文明年間(1469-87)
所在地:宮崎県東臼杵郡門川町城屋敷

門川城

登城日 平成二十二年二月七日   作成日 平成二十二年三月二十日

無料駐車場があり、この辺りが内堀跡であったようで、標柱もありました。
大手門をくぐり公園に入いると、『千人殺しの石垣』目の前に見えます。
本丸から壮大な城下町を見下ろせば当時の城主の気持ちが伝わってきますね。
二の丸から枡形を通ると本丸となり、奥へ行くと天守台跡が見えてきます。
この天守台跡には、鐘撞堂があり、虎口が見所ですね。あと本丸と反対側に
三の丸があり、庭園になって、石垣・曲輪と見所の多い延岡城でした。

歴代城主の碑

三の丸跡

三階櫓の石垣

隅櫓の石垣

本丸からの展望

本 丸

延岡城は、この城山の山上に、豊臣秀吉の九州統一後、日向県五万石の
領主として入った高橋元種が築城。慶長八年(1603)のことで、当時は
県城と呼ばれていた。堅固な要害で、最高所に本丸を置き、天守を構え
西側に三階櫓、東下に隅櫓、ほかに一の丸、二の丸、三の丸、そして少
し離れた城地の西側に西の丸などを配した。

今は跡ばかりで、石垣が往時をしのばせてくれるが、三の丸から二の丸
に登る所にある二の丸北面の高さ二十メートルの高石垣は”千人殺し”と
呼ばれた独特の仕掛けでとくに名高く、延岡城一番の見せ場になっている。

これは敵に攻められた時は、一番下の積み石を一つはずすと、石垣が総崩
れになり、敵を千人以上も一瞬にして殺せる威力をもつといわれている。
                     日本の名城・古城事典より

《亀井城》

築城者:高橋元種 慶長八年(1603)
所在地:宮崎県延岡市本小路城山

延岡城

№385

井上城

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