都之城

築城者:北郷義久 天授元年(1375)
所在地:宮崎県都城市都島町

№377

標高百五十メートル余りの小丘に築かれた平山城で、鶴丸城とも呼ばれた。
天授元年(1375)、島津氏一族の北郷義久の築城なり、代々都島津氏四万石の
城下町治めた。島津氏発祥の地である。しかし天正十五年(1587)薩摩の
宮之城へ移され、伊集院幸侃が入城するが、幸侃の子忠真が島津本家に氾濫を
起こしたため、慶長五年(1600)再び北郷氏が都城主に復帰。
島津藩支藩として十四代続いた。
城の主郭部(本丸)については、昭和六十三年から平成二年にかけて発掘調査を
実施し当時の様子が明らかとなった。その中心となる建物(館)は、北側
(現歴史資料館)に位置していたと思われ、比較的大きな遺構が見つかっている。
                        日本名城・古城事典より

登城日 平成二十二年(2010)二月六日 作成日 平成二十二年三月七日

大手門

都城歴史資料館

本丸からの展望

天守風の都城歴史資料館は、木材の需要促進を主目的とした補助事業で城址に
ふさわしく城風様式で建築され、平成元年十月に開館されとようですね。
西の丸にある狭野神社で結婚式を挙げられて、登城口で集合写真を撮られていました。
石段いっぱいに並ばれ撮っていましたので、しばらく見学させてもらいました。

天ヶ城

築城者:島津義弘 慶長五年 
所在地:宮崎県宮崎市高岡町内山

島津義弘は慶長五年(1600)天下分け目の関ケ原の合戦では石田三成方の西軍につき
合戦の様子を眺めていたところ、東軍の徳川家康が大勝したため、敵陣突破を強行して
命からがら日向細島を経て帰国途中、八代村に宿泊。

徳川家康の勝利が全国に知れ渡ると、島津氏と長年にわたって戦ってきた日向伊東氏の
重臣たちは「島津氏を滅ぼし、伊東氏の旧領を取り戻すのはこの時ばかり」と考え
即座に兵を率いて島津義弘が宿泊している八代村に向かって進軍。

これに対して島津領内の武将たちが取るものも取りあえず八代村に兵を進め、ようやく
のこと伊東側の兵を食い止め、島津義弘は兵数十名を引き連れて八代村を脱出。
かろうじて鹿児島城にたどり着くことができた。
                          日本の名城・古城事典より
  

№379

着いた時間が六時と遅く天守に入れませんでしたが、標高120mからの展望は良かったです。
明るく写っていますが、カメラの設定を夜景に切り替え写しました。各家には灯が灯っています
天ヶ城公園での写真は、車のライトを照らし三脚を立て、何とか撮れました!。

綾城

築城者:綾氏 元弘年間
所在地:宮崎県東諸県郡綾町北股錦原

永禄年間、綾城主佐土原遠江守が城主であったが
天正五年に伊東氏の豊後出奔後は島津氏が領有して
島津氏家臣新納久時が城主となった。 
その後、元和元年、元和の一国一城令により廃城となった。
            日本の名城・古城事典より  

№380

登城日 平成二十二年(2010)二月六日 作成日 平成二十二年三月七日

登城日 平成二十二年(2010)二月六日 作成日 平成二十二年三月七日

午後八時の撮影

冠木門も閉り 撮影は無理です
これで宿に向かいます。

駐車場の碑

本丸より撮影

《高岡城》

さくら広場より撮影

展望広場

展望広場より

展望広場より

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