天正九年(1581)、天正伊賀の乱で、伊賀の土豪たちは力を合わせ、
織田信長と戦うが、福地伊予守宗隆は信長に与し、伊賀攻略の道案内の
役を果たすことになる。そのため、伊賀の土豪たちは信長軍に完敗し、
伊賀一円は灰燼に帰した。しかし、天正十年(1582)六月、本能寺の変で
信長が倒れると、福地氏は伊賀の民衆の怒りを買い、追い出されるように
一族そろって伊勢国に落ち延び、その後、福地姓を松尾に変えて、鹿伏兎に
隠棲したという。その子孫は、江戸時代、伊賀者として活躍したともいわれ、
俳人・松尾芭蕉はその末裔にあたるという。

古 さ と や 臍 の 緒 に な く と し の 暮  はせを
芭 蕉 誕 生 記 念 碑
俳聖芭蕉は正保元年上柘植松尾儀左衛門宗住の次子として生まれた 
平宗清の宗裔柘植七党に族した名家である ことし生誕三百二十五年を迎え
中頃の福地氏ゆかりの城址に碑を建てながくその高風を偲ぶよすがとした
         明治二十六年(1893)建立

昭和十八年(1943)建立

そ は は ま た 花 て も て な す 山 路 か な  はせを

昭和四十三年(1968)十一月十二日建立

句 碑

句 碑

古井戸

本丸の井戸に滑車・縄に吊るされた釣瓶があった。
井戸をのぞいて見ると、満々と水を湛えていた

福地城

築城者:福地氏  築城年:南北朝時代
所在地:三重県伊賀市柘植町字浦出

本丸の虎口から枡形門跡

堀 跡

本丸の北側に残っている堀もとても良い形で残っている。

土 塁

土塁も周囲を囲むように、見事に残っていました。

搦手口

№363

階段の入口に5・6台停められる駐車場があります
搦手からの登城もおすすめします!

二の丸

土塁も残り、伊賀の城下町が見下ろせます

登城日:平成21年(2009)11月28日 作成日:平成23年1月27日

百地城から福地城に来たが、地元の方でもあまり知られていないようで、たまたま通りかかった方が城跡の管理をされている高倉様で、高倉様の案内で福地城に着けました。

福地城跡は名阪自動車道に分断されていますが、遺構はしっかり残っていました。
本丸の芭蕉の句碑が七基ありましたが、登城のときは芭蕉との関係もわからず
なんと句碑の多い城跡だなぁ? なんて思いながら散策していましたが、芭蕉の誕生地?
少し疑問が残りますが、城郭内は綺麗に整備されていました。

本丸の南西にある井戸は必見です! 少し怖い感じがしましたが歴史を感じる井戸でした。

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