応永年間(1394〜1424)
このあたりは、字名を城山という。羽津城があったことにより命名されたのであろう。宝永八年(1711)四月の
『羽津村指出帳』によると、『城址西東三十八間・北南三十四間・城主赤堀右京』とある。築城したのは藤原
盛宗。彼は、藤原秀郷(俗称・俵藤太)の子孫で応永年間(1394〜1428)に上野国赤堀庄から当地に移って
赤堀城を築いた藤原景信の長男だった。景信の次男は赤堀城を継ぎ、三男忠秀は浜田に城を構え、盛宗
とともに赤堀三家といわれて、北勢地方で勢力を誇った。羽津城は、盛宗の後、宗久・宗善・宗慶・宗昌と続
いたが、元亀三年(1572)六代近宗の時に織田信長に滅ぼされた。羽津山町の正法寺には、六代の過去帳
がある。現在、城跡と称しているところは、昔の本丸のあとで、土塁が残っている。
私見 登城日2003・03・21 作成日2003・04・18 編集日2006・06・10
さいたま県の川越城に行く途中ナビに映し出され、急きょ寄り道!、線路に寸断され、線路の北側が本丸で
土塁・石垣・碑が残り、線路の南側は幼稚園で遺構は残っていない。道路の脇に車を停め、カメラ片手に
ダッシュ!!。2〜3枚の写真を撮り終え、先を急ぐため引き上げてきた☆☆。
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城主・藤原盛宗
羽津城
三重県四日市市城山
羽津城の由来書