山崎城

天王山が淀川へ最もせりだした場所で対岸の男山を望み、
西国から京への入口に当たる交通の要所だった故に、この城を
めぐって争奪戦がくり広げられた事を想像しながら展望を楽しめる
この展望台に立つと羽柴(豊臣)秀吉になったようでした。

旗立松展望台

本丸跡

山崎合戦之地

本丸跡

井戸跡

小倉神社へ

今にも滑り落ちそうな急斜面をご婦人二人が挑んでいました
私にはその体力は残っていませんでしたので、スゴスゴと
上って来た道を戻りましたね。

所在地:京都府乙訓郡大山崎町大山崎天王山
築城者:羽柴秀吉

《天王山宝寺城》

天王山山頂へは、宝積寺の境内を通るか、観音寺から山頂への
ハイキング道がそれぞれ整備されていますが、宝積寺の方を
山崎歴史資料館の係員の方にマップを頂いた時に勧められました。
天王山はお椀を伏せた形をしているので、登りはじめがきつく、
山頂に近づくと緩やかになりますので酒解神社が見えてきたら
頂上まで十分程ですので『頑張ってくださいね』と励まされました。
山頂近くの酒解神社付近から山崎城の城域らしき、土塁・空堀が
確認する事ができます。

№341

秀吉は大坂城を築城して移るまで、約一年この山崎城を居城とした
ようです。本来の登城道は閉鎖されていて通れませんが、大手虎口の
土塁は現在でも良く残っているようです。さらに大手虎口の先南側
には谷を利用した捨堀が多く見る事ができます。

備中高松城の水攻めで兵力の消耗を避けていた羽柴秀吉軍は、
丹羽長秀らの軍勢と合流することでさらに兵力を増強しましたが、
明智光秀は頼みの細川藤孝や筒井順慶ら、年来昵懇にしていた諸将
の協力を得られないまま、二倍以上の兵数を誇る羽柴軍との決戦に
臨むことになります。緒戦で天王山上に陣を敷くことに成功した
羽柴軍は、結果戦場に良形を作れる体勢を確保し、主戦場となった
天王山麓淀川沿いの湿地帯で明智軍を撃破しました。

天正十年(1582)六月十三日の山崎合戦後、羽柴秀吉は天王山山頂に
山城を築城し、その時掘ったのがこの井戸で当時の人が飲料水として
利用していたものと推定されるそうです。

帰路

麓まで下り、京都らしい竹林を通り清々しい気持ちで歴史資料館の
駐車場に着き、リュックを降ろすと背中の汗が
ヽ(*゚O゚)ノ。
車内で着替え、山本さんが待っている喫茶店へと
急ぐ

2012年9月29日 再訪

inserted by FC2 system