西一口城

築城者:斎藤実盛 承久年間~元亀年間
所在地:京都府久世郡久御山町西一口古城

№475

《御牧城》

《芋洗城》

にし  いも  あらい じょう

西一口城は久御山町西一口の小字古城の地にあった。城跡へは京阪電鉄淀駅から
淀大橋を渡り、淀川の堤防の下の道路を約1500m東に進むと『淀川渡船所』の
碑があり、そこからさらに100mほど東に入った所が西一口集落で、小字古城は
この集落の中央にある。

この地は『源平盛衰記』『吾妻鏡』などにも『一口』あるいは『芋洗』として
その名がみえる。承久三年(1221)の承久の乱の時には、上皇方が一口に
一条信能・二位法印尊長・坊門忠信らを配したといわれる。

また、元亀元年(1570)、三好三人衆が一揆に乗じて山城国に出兵し御牧城
(西一口城)を落し、十月二十二日、羽柴秀吉が細川藤孝らと共に奪回したと
いわれる。

西一口城は古くは斎藤別当実盛の居館が置かれていた城と伝えられている。
現在は当城跡には民家が密集しており、遺構はなにも残っていない。しかし、
この一口集落の戸数十五戸(昭和五十五年)のうち九戸が斎藤姓で、いずれも
斎藤実盛の子孫といわれている。
                        日本城郭大系より

登城日:平成二十三年(2011)十月九日  作成日:平成二十三年十月十五日

数年前から訪れたいと思っていた西一口城に登城できました。と、いっても遺構は無く
古地図を持って散策開始。明治初期の地図では西一口城跡は、左右を池に挟まれ、北に宇治川と、
三方を囲まれた地形になっていますが、現在は東側が田畑になり、西側は温室になっていました。

写真、分家の斎藤様が立たれている道路が登城道で元の広さで、3m20cmでは無い3m2cmと
教えていただきました。バイパス道路ができるまで近くの運送会社の大型トラックがこの道を通って、
時々ブロック塀を壊されたと嘆いていました。また、地名の古城は『
ふるしろ』と読むとおっしゃっていました。

昭和五十五年の集落戸数は十五戸でしたが、現在は十三戸で斎藤姓は七戸と斎藤家が二戸少なくなって
しまったそうです。昨年亡くなった斎藤氏が歴史をよく知っていたそうですので、もう少し早く行けたら
本家の斎藤様から、話がお聞きできたと思い、残念におもいます。

城跡の東の池からの眺め

現地に地図

車で通った登城道をナビで

城跡

明治初期の地図

登城道で分家の斎藤様

本家の斎藤様の表札

御牧村役場跡の石碑

斎藤半右衛門氏が建てた地蔵尊

一部壕跡が残っています

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