龍虎城は、十六世紀初め(1507~1516年)に財部六郎正信によって築城された。 城は、十二の砦から成り、その形はあたかも虎が伏し、龍が翻っている姿に似て いるところから龍虎城と命名されたと言われる。 面積は約八haで、城のシンボルである本丸は、現在、忠霊塔のある台地に 中丸は正面入口のコンクリートの階段を登った頂上に築かれていた。 慶長四年(1599)都城城主、伊集院忠棟入道幸侃が島津忠恒(後の家久)に 京都で殺され、その子源次郎忠真は父の仇討ちと、島津氏に戦いを挑んだ。 これが慶長四~五年(1599~1600)の庄内の乱である。 時の龍虎主は忠真の甥、伊集院甚吉で、城は島津勢の攻撃にも落城せず 徳川家康の命で降伏させられた。 元和元年(1615)1国1城の命により廃城となったが、今も山城として原形を とどめ、貴重な城址として、財部町のシンボルとなっている。 平成三年八月建立:財部町教育委員会 |
築城者:財部正信 鎌倉時代
所在地:鹿児島県曽於郡財部町麓鹿
№376
財部城
《龍虎城》
登城日 平成二十二年(2010)二月六日 作成日 平成二十二年三月六日
平安城址
築城者:平山了清弘 安年中(1278~88年)
所在地:鹿児島県姶良郡姶良町鍋倉字本丸、松尾ノ下
《平山城》
平山城は、平安城とも言い、弘安年中(1278~88年)平山了清が
築いたとされます。城は、現在の八幡神社一帯で、八幡神社は平山氏に
より勧請されたものです。
八幡宮の社殿の側に一寺を建立し、八流寺増長院と名づけ八幡宮の
別当寺と定めさらに神宮鎮座の地を平安山と称し、城郭を構えて平安城と
名づけた。島津義弘は帖佐城の節、大いに八幡宮を崇敬し征韓、関ヶ原の
役の際も戦揵祈願の事あり、数々の寄進をなした。”
搦手で、右より左に急勾配な坂道です
壁画が沢山彫ってありました。
搦手が絶壁で、攻め難い城郭です
先客のカメラマンさんが洞窟の
入り口に立っています。
平成二十二年(2010)二月六日
作成日 平成二十二年三月六日
№375
大手門
本丸近くまで続く細い車道
本丸の城碑
曲輪と曲輪に架かった橋
空堀の高さがわかりませんね?
車を置いてみました!
財部城の字が読めなかったが、息子に「たからべ」と読むらしいと聞いてビックリ!。
城郭は、城山公園となって山頂近くに駐車場が完備されていますが、大型車は
城門手前の駐車場に停めて歩いて登られた方が無難と思います。
城郭は12の郭からなっていますが堀切の高さに驚かされました。
本丸からの展望
登城道からの展望
建昌城
№374
築城者:島津季久 享徳年間(1452~1454)
所在地:鹿児島県姶良町西餅田字建昌
《瓜生野城》
http://www12.synapse.ne.jp/aira-museum/images/image/kenshojo.pdf#search='建昌城'
築城年代は定かではないが享徳三年(1455)頃に島津李久によって
築かれたと云われる。李久は島津忠国の弟で島津氏が平山氏を制した後
帖佐は李久に与えられ瓜生野城を築いたという。
詳しくは↓
登城日 平成二十二年(2010)二月六日 作成日 平成二十二年三月六日
城郭手前で工事をしている方にお聞きしますと、城郭迄車で入ってくださいとの事。
発掘調査が終り、駐車場とトイレの設備をしているとおっしゃっていました。
土塁・曲輪が確認でき、整備後もう一度訪れて見たい城ですね。