志知城

№336

築城者:管和泉守道忠 鎌倉時代
所在地:兵庫県南あわじ市志知松本

鎌倉時代、管和泉守道忠がこの地に築いた城である。代々の居城であったが、長く続いた
この城も、野口長宗の時代になって、豊臣秀吉に降服しました。その後秀吉の家来の加藤嘉明
が、天正十三年(1585)名を左馬嘉明と改めて入封して、この城の主となった。

越前の柴田勝家との戦いで手柄をたて、5,000石(大人が一人一年に一石の米を食べるとして
5,000人分)をもらったという。その後、秀吉が朝鮮征伐をすることになり、加藤嘉明は兵隊
七百五十人を引率して、志知城の南にあたる『蜷ヶ瀬』で軍艦を造り、この堀から湊につづく
河に沿って船を出したといわれている。その後、年号がかわって文禄二年、敵軍は数百艘を
整えてきて、唐島で大きな戦いが始まり、加藤嘉明がまっさきに小船三艘で敵船に近づき、
その船軍に飛び入り大活躍して敵兵を多数こらしめ、勝利をおさめた。

秀吉は、この嘉明の手柄を聞いて大喜び、志知城を一万8,000石の大名にした。その後十万石
をあたえたといわれている。その後、秀吉が亡くなり、嘉明は戦乱なか元和の役で大いに手柄
をたて、寛永四年(1627)には陸奥の国、会津若松にうつり、松山の城主となって五十万石を
領していたといわれているぐらい出世しました。
                         水軍の城 志知城より

志知城の内堀

登城日:平成二十一年(2009)八月一日  作成日:平成二十三年(2011)四月二十四日

神戸淡路鳴門自動車道の『西淡三原』で降り、県道31号線に突き当り左折する。高速道の下を
くぐり、県道477号線と交差する、この交差点が志知で、直進する。右にローソン西淡があり
左にお好み焼『恋路』が観えて来ます。恋路の手前の細い道を進むと前方に森が見えてきます
この森が志知城ですので、車は『恋路』の駐車場に停めた方が良いかと思います。

歩いて突き当りを右に進み、200mほど道なりに歩くと、右に声明寺があり左に登城道がありました
畦道を歩いていくと、内堀があり土橋を渡ると城郭に入れます。途中五輪等・城碑・案内板などと
土塁・堀・曲輪など、数多く遺構が残っていますので1時間ほどの散策を楽しめられると思います。
 

本丸

二の丸

二の丸の土塁

登城道

恋路から入った突き当たりから観た志知城

2012年1月2日再訪へ

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