湊城

本丸上段 土塁と西端の天尊台

築城者:安宅氏
所在地:兵庫県南あわじ市湊里1484

敵の動きが手にとるように一望できる、海抜二十六メートルの上段の土塁の東側に矢倉台
西端に天尊台を構えた湊城は要害の地で、ここから志知城の動きを見張り、戦闘態勢を
整え、湊城は戦国時代に京都の政権を握った三好の一族、安宅次郎のいた城で、安宅
八家衆、または、淡路十人衆の一人でありました。

いつ城が築かれたのかは、はっきりしていませんが、安宅次郎は弓の名手で、湊の沖を
ゆきかう船で矢を射かけ、追手の船で財宝をうばう海賊の長であったともいわれています。
応永年間(1558~69)志知片田北で、いくたびか合戦がありました。

片田北の合戦については、『菊川四郎蔵後先祖素性並代々成行相調帖』には、『菊川太兵
衛は淡路十人衆、湊里村の城主安宅次郎の一族で、天正のころ湊城落城』と、文書に記され
ているので、湊城の勝利と考えられるようです。

ところが、天正九年(1581)、秀吉の淡路攻めで、安宅氏一族は秀吉の『無条件で降伏すれ
ば戦火はまじえない。』の条件をみとめて降伏しましたが、白巣城主のみが戦火をまじえ
戦いました。この時、湊城主も無条件で秀吉に降り、湊城は廃城となりました。

廃城の後、武士は浪人となり、城主の一族菊川氏が湊城に邸宅をかまえ、家来たちは湊里に
住みました。その後、加藤左馬助が志知城主の時、志知城支配下となり、初代菊川太兵衛が
庄屋職を、三代太兵衛が組頭庄屋(大庄屋)となって、菊川家は江戸時代十一代も栄えました。

今はその先祖の祠が、空堀の外のお堂に祭られ、地元の人たちはこのお堂を『城の殿』
『安宅の明神』とよんでいます。湊城の城跡には、今も三方に土塁とカラ堀、三段の城跡
矢倉台などが、四百年前のおもかげをとどめています。

古道から菊川家邸宅全景

土塁と明神社の間あるに空堀

先祖の祠が祭られている『城の殿』

土塁の東端に矢倉台

土塁の西端に天尊台

天尊台まえの菊川兼男氏

史料で説明をして頂きました

矢倉台からみる上段の菊川氏

菊川兼男氏自ら天尊台に

  天尊台まえで、
兼男氏と管理人(五郎)

上段を説明して頂いた菊川兼男氏

中段に夕日が差し込んでいます

下段の菊川氏の邸宅

登城日:平成22年(2010)10月10日  作成日:平成22年(2010)10月11日

都志城と叶堂城を再訪した後、湊城を訪れてみました。
県道25号線で御原橋北詰の叶堂城を再訪した後、近くの湊城を訪れました。
湊城跡とされる菊川邸宅の前に着くと、年配のご夫婦が車で出かけられていました。
門扉のまえで若奥様が見送られていましたので、洲本高等学校校長をされていた
菊川兼男氏をお尋ねすると、今出かけられている方が兼男氏とのこと。
夕方の4時半頃迄、どうしても帰られないとのことで、若奥様に《城の殿と空堀・土塁》
を案内して頂きました。

兼男氏が帰られる4時半に、再びお訪ねして城跡の土塁・矢倉台・天尊台・上段・中段・下段
と拝見させていただき、97歳になられる兼男氏自ら土塁・矢倉台・天尊台に上がられ、この
土塁・天尊台・矢倉台の外側の急勾配は、今の土木技術でも難しいと言われていました。

城跡の説明をして頂いた後、邸宅内で史料での説明をして頂き、40年まえまで、淡路島の
古墳・城跡の史料集めの会長をされ、70パーセントは兼男氏が集められたそうです。
最後にお写真を撮らせてください。と、お願いしたところ、気安く天尊台まえでと言って
くださいました。で、上段の天尊台まえで1枚撮らせていただいとところ、息子さんが
2人でどうですか?と、言ってくださり、あまえて記念の一枚を撮っていただきました。

のち、兼男氏が、息子さんが管理人とおなじ慶長351年生まれと教えていただきました。
私の父親は鳥飼出身で、湊城から4km離れた船瀬で生まれ、兼男氏が、私の母と同じ
大正2年生まれの97才というのも、なにかの御縁んでしょうか。

№431

《湊里城》














空堀

370年まえの湊里城絵図

樹齢500年のモチの木

湊城碑と兼男氏

絵図にも描かれている街道

力強い根と歴史を感じるモチの木の幹

再訪日 平成23年4月3日  作成日 平成23年4月9日

友人より、『明神社』に湊城跡の城碑が建っている。と連絡があり、半年ぶりに湊里城跡にお住まいの菊川兼男氏を
お尋ねしました。、兼男氏を助手席に乗っていただき『明神社』に移動すると、そこには洲本城碑より数センチ
大きい『湊城跡』の城碑が建っていました。 近々土塁の木々を伐採して土塁が観られるようにしてくれるらしいよ!。
現在の明神社も農地解放で手放されたが、買い戻されて明神社に『城の殿』を建てられたそうです。

お話をお聞きしていると、兼男氏の甥で彫刻家の菊川晋久ご夫妻が『明神社』に来られました。
四人で話が弾み、前回お尋ねしたときに、戦国時代から植っていたモチの木を撮るのを忘れていたので、庭に
入らせていただき、モチの木に再会。このモチの木の根は敷地内全体に根を張っていると奥様に教えていただきました。
のち、古地図の話から、晋久氏が、370年まえの絵図を兼男氏が所有されていて、
その絵図を管理人の私にあげるように言ってくださり、ありがたく頂きました。  
ありがとうございました

再訪日 平成二十三年(2011)六月五日  作成日 平成二十三年六月十二日

丸に下がり藤

約築200年の蔵

木々を伐採して、観やすくしていただきました

5月5日、菊川兼男氏より外堀周辺の木々を伐採したので観に来てください。
と、お葉書を頂いていました。おそくなりましたが、6月5日にお尋ねしました。
午前10時半にお尋ねすると、兼男氏はご不在でしたので、奥様に門扉を開けていただきました。

今回は外堀を観るのが楽しみでしたが、菊川家の家紋の由来、築200年の蔵なども
教えていただき、アップするのを楽しみに家路を急ぎました。

再訪日:平成二十三年八月十三日  作成日:平成二十三年八月十五日

今回は、屋敷見取り図を拝見させていただきました。
約1m四方の和紙に明治十三年に作成された見取り図に、東に長屋門・北に蔵が
建ち並び、当時の壮大な屋敷を想像できました。

 2012年01月02日再訪へ
 2012年03月10日再訪へ
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