黒崎城

築城者: 井上周防守之房(黒田氏)1554~1634
築城年:慶長六年(1601) 廃城年:元和元年(1615)
所在地:福岡県北九州市八幡西区田町一丁目九番

№297

《道伯城》

藤田村の上(北)に山あり、ここに昔より城なし。
黒田長政入国後、城を築きたまい、家臣井上周防之房にこれを守らしめる。
周防守、この山を黒崎と言わず、この城山の南の麓に農人の宅一区ありて、
そこを黒崎と言いしが、これによって「黒崎の城」と名付く。
熊手町は昔よりあり。田町、藤田町は黒崎の城が出来た後に立り。
黒崎城下にある故に、この時より、この三所の町すべて黒崎と称す。
                            日本の城下町より

本丸跡

一夜城は高さ15㍍、幅20㍍のベニヤ板で、背後に足場を組んで支えていました。
八幡工業高校の生徒さんが作成して、下から見て立体感を出すのに苦労されたようです。
市街地からは、黒崎城の天守が浮かび上がって見えるとの連絡を受け
熊本県からすっ飛んで行き、この写真を撮りました。で、満足して帰りました。
2004年、城山に約1週間、夜間点灯されたらしいですよ。  
                              孝太郎さんからのメールより

本丸跡からの眺め

標高65.8m

黒崎地区の慢性的な渋滞を緩和し、交通の円滑化を図るのが目的の、
JR鹿児島線北側に通るバイパスは、八幡東区西本町から八幡西区陣原まで
延長5.8㎞幅員17.5mの4車線。全通は2018年頃の見通しらしい。
写真左端に、黒田長政の霊を祀った春日神社も見えています。

写真提供
熊本県にお住まいの孝太郎さん

道伯山に天守が!

登城日:平成二十一年(2009)二月七日
作成日:平成二十一年(2009)三月二十九日

二の丸跡の石垣

本丸跡の石垣

帯曲輪跡の石垣

城山は東西の経100m、杓子型で、高さは海抜65.8mで、
頂上は平坦で5000坪ある。寛永十年(1633年・80歳)栗山大膳遺乱の時、
東武に行きて、国君罪なくして、大膳私の意趣たることを、大老、諸監士の
前にて、堂々と大膳と対決しけるによって、大膳罪に伏し、「国君(藩主)危機」を
のがれ給う。寛永十一年十月二十二日、病にて卒す。享年八十一歳。
筑前国遠賀郡高倉村(岡垣町)龍昌寺に葬る。
             筑前国続風土記26の黒崎城址より

黒崎の古城は藤田村に在り。この城は長政公入国の後、豊前境の防御の為に
築かせられ、家臣「井上周防守之房」に三万石(記録によって違う)采地を賜り、
当郡の事を司どらしめて、この城に置かる。
・・・中略・・・周防ここに在住し、この家人など多くここに宅をしめ、商売も集まりて、
藤田、田町の両町たてり。このところの町の号も城の名によりて、黒崎と言う。
石は妙見の硬い玄武岩を使っているようです。黒崎城は短命でした。
                                  筑前国続風土記より

黒崎城は、慶長九年(1609)に完成した。城主として黒田二十四騎のひとり、
井上之房(いのうえこれふさ=道伯どうはく)が入った。知行高は一万五千石、
のちに二万石という大身であった。
入城した之房は、山麓に家臣を住まわせ、また付近に民家がなかったので
藤田村、熊手村を城の南、南西に移させたという。
                          平凡社 の福岡県の地名より

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