秋月城

建仁三年(1203)のころ、原田種雄が入封して古処山に居を構え、秋月の姓を受けたことに始まる。
とこおろが、それよりさらに昔、仲哀天皇九年ごろ神功皇后がこの地に兵を出し、羽白熊鷲と呼ぶ
賊を平定したという伝説がある。

そのあと霊場として知られるようになり、平安時代の末期には三十六坊が建ち並んでいたほどだった
という。さて、戦国の世になり、天正十五年(1587)に秀吉が九州平定を実施したおり、秋月氏の
家臣恵利暢堯が秀吉と会見したという記録がある。その結果、秀吉軍は力攻めにできない大軍だから
講和によって従うように提言した。

ところが聞き入れられなかったので暢堯は切腹し、多くの家臣が殉死したという。こんなことがあって
講和が成立しなかったため、秀吉は五万以上の軍勢を古処山に差し向け、秋月宗全(種実入道)とその
子種長を攻めた。そこで、種長は城を出て秀吉の陣へ行き、秋月家重代の宝(極柴の茶壺)を贈って
威亡を避けたという。秀吉は名器の蒐集で有名である。

その後、慶長五年(1600)に関ヶ原の合戦が起きたが、秋月氏は東軍に属して高鍋藩三万石を与えられ
ることになった。江戸時代に入って、寛永元年(1624)に黒田長政の三男長興が五万石で入封した。
これが秋月藩の初めであるが、城郭としても再整備している。現在、城郭は秋月中学校の校庭となって
いるが、堀と石垣の一部、黒門などが残っている。
                            日本の名城・古城事典より

登城日 平成23年5月14日  作成日 平成23年5月20日

夜24時前に自宅を出発し、息子を迎えに行き今回の城巡りの情報交換から、秋月城に決定!
茨木インターより名神自動車道に入り、中国自動車道~山陽自動車道~中国自動車道~
九州自動車道で九州に入り、鳥栖JCTで大分自動車道にきりかえ、甘木インターで降りました。
国道322号線で秋月城の城下町に入りましたが、車で通るのがわるいような、情緒ある城下町でした。

スピードを控え、城跡に近づいてみると、堀・石垣のすばらしさに驚愕

現存黒門のまえで、ただただ呆然
!!  
福岡県の城巡りで、秋月城を真っ先に訪れたいと息子が言い切っただけある城跡でした

校門のうしろに石垣

二の丸からの秋月中学校

秋月城まえの資料館

黒 門

家紋入りの瓦

本 丸

長屋門と石段

校庭の石垣

堀 跡

黒門から延びる侍坂

《杉本城》

築城者:秋月種雄  建仁三年(1203)
所在地:福岡県朝倉市甘木市大字野鳥663-5

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