弘前城
築城者:津軽信枚 慶長十六年(1611)
所在地:青森県弘前市下白銀町
№419
弘前城・現存天守
弘前城・現存北門
高岡城すなわち後の弘前城築城を計画したには、津軽為信である。
その三男信枚の代、慶長十六年(1611)二月にほぼ完成し、堀越城から移った。
信枚が家督を相続することについて、一騒動起こっている。
慶長十二年(1607)十月、為信の長男信建が京都で病死し、後を追うように
十二月五日、為信も没した。信建には、一子熊千代がいる。ただ熊千代は幼少時
に顔から頭にかけて酷い火傷をし、顔にその跡が残り、頭髪も無かったらしい。
そこで為信は娘婿である大光寺城の建広に預けておいた。為信の死後、この建広が
八歳の熊千代に津軽家を継がせるべく、幕府に訴えようと江戸へ向けて出発したのだ。
急を聞いた重臣高坂蔵人が一行を追い、鯵ヶ沢の船着場で、『殿(為信)』は、既に
跡目を信枚様として幕府に届け出している。と説き連れ戻した。
慶長十二年十二月二十三日、信枚が二代城主となる。 毎日新聞社(城)シリーズより
丑寅櫓
東内門
復元された与力番所
東門
本丸から岩木山を望む
天守内はフラッシュ無しの撮影可
歴史の重さを感じる肘壷金物と八双
天守から観た下乗橋
城巡りを本格的に周りはじめて、ついにやって来ました、現存天守12番目の弘前城に\(^o^)/
城内に入り北門をみていると、地元の女性から声を掛けられました。どちらから来られました?
の言葉に、大阪です。に、飛行機で?。車です。その方は驚き、では、案内させてくださいね。
の言葉に、あまえさせてもらい、北門の写真に写っている方から説明をしていただきました。
北門は以前、大光寺城の城門を慶長十六年(1611)に大手門として移築したもので、
実戦経験のない弘前城の中で唯一実践の痕跡が残り柱には多数の矢傷や刀傷を見ることができます。
弘前城に現在残っている城門の中では規模が最大で矢狭間や鉄砲狭間が無いなど多の城門とは
異なる形式を持っています。北門は国指定重要文化財に指定されていますよ。と教えて頂きました。
津軽信義使用の駕籠
登城日:平成22年9月12日 作成日:平成22年10月02日
≪高岡城≫
《鷹岡城》