大館城
築城者:浅利民部勝頼 天文十九年(1550)
所在地:秋田県大館市中城20
№421
《桂城》
《鬼ヶ城》
復元図
戦国時代の頃の城の興亡には目まぐるしいものがあった。陸奥の南部氏を交えて浅利
・安東の三氏が文字どおり三つどもえの争奪戦が演じられた
浅利氏初代則頼の二男である浅利民部勝頼が、天文十九年(1550)に大館城を築いた
とされる。後に永禄五年(1562)、勝頼は檜山安東氏と結び、扇田の長岡城に住んで
いた兄・則祐を自害に追込んでいる。
天正十年(1582)、勝頼が檜山城で安東愛季によって殺害され、大館地方は
安東氏の支配下に置かれた。愛季は大館城に五十目兵庫秀兼・和田内膳らをを城代と
して置いたが、天正十五年(1587)に愛季が死去すると、翌天正十六年(1588)に
秀兼が南部氏に内応し、大館城に南部勢である大光寺光親を引入れて和田内膳を討った。
こうしてこの地は南部氏の支配下に置かれ、大館城には北信愛が城代として入った。
城跡は本丸跡が桂城公園となり、二の丸・三の丸は官庁街になって、面影をとどめない。
日本の名城・古城事典より
本丸の南側に残る水堀
土塁
本丸を囲む土塁と水堀
本丸からの展望
小中城門跡の石垣と碑
登城日 平成22年(2010)9月12日 作成日 平成22年(2010)10月16日
十和田湖から五城目城に向かう途中、入力していた大館城が近づいてきた。
道路と同じ高さでしたが、本丸から城下町をみてみると、十メートルほどの
高低差がありそうですね。本丸の南側には、土塁・水堀・城門跡・石垣など
沢山の遺構が確認できました。思わぬ大館城の遺構に、喜び五城目城に向かう。