久保田城

築城者:佐竹義宣 慶長九年(1604)
所在地:秋田市千秋公園1番39号

№425

《矢留城》

《葛根城》

佐竹義宣が常陸国五十四万石から秋田へ国替えを命じられたのは慶長七年(1602)
のことであるが、それは、知行高も明示されない異様な転封だった。
義宣については、同五年の関ヶ原の戦いを前にした激動の情勢の中で、石田三成
上杉景勝と結んで徳川家康の挟撃を企てているとの噂が立ち、事実、義宣は合戦に
出ず、中立を保った。家康はこれを評して『義宣は律義者だが、ひと工夫足りない』
といった、と伝えられている。つまり、秋田への国替えは、中立に対する処罰だった
のである。

義宣は入封の翌年、久保田村の神明山に築城を開始する。城地の選定に際し、義宣と
父義重の間で意見が分かれ、義重は領地南部の横手に築城すべし、と主張したという
久保田城は普請開始の翌慶長九年に早くも完成した。それもそのはず、この城には
天守閣はもとより、石垣も無く、囲いは土塁ぐらいのものであった。

このように思いきって質素な城にしたのは、知行高も決まらないという財政上の苦慮
もあったが、結局は左遷された身として、幕府への遠慮があり、堅固な城造りをはば
かったのであったろう。それにしても、佐竹氏の知行高二十万五千石が決定したのは
入国後六十二年も経った寛文四年(1664)のことで、このとき初めて、常陸時代の
半分にも満たない大減封である事実を突きつけられたのであった。
                        日本の名城・古城事典より

二の丸

二の丸から石段を上がっていく

本丸の正門  表門(一の門)

佐竹義堯(よしたか)の銅像

御隅櫓

表門の礎石

御隅櫓からの南方の展望

御隅櫓の北方の展望

登城日 平成22年(2010)9月13日  作成日 平成22年(2010)10月30日

天候があまり良くないが、まだ雨は降っていない。二の丸にある有料駐車場に
車を預け、石段を上がって行くと木の陰に表門が観えた!

迫力ある門だが、平成の復興で建てたとか。
本丸の中央に佐竹義堯の銅像が大空に
羽ばたくように建っていました。公園として整理された久保田城は、沢山の観光客
が訪れていましたが、久保田城を訪れて表門の表門の礎石がいちばん良かったかも?

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