金沢城

《金沢柵》

平安期の出羽の大族清原氏の本拠地、そして、『後三年の役』の決戦地
金沢柵跡に比定される丘である。清原武則は、陸奥国の安倍氏と並ぶ俘囚
の長であったが、安倍氏の乱が起こると、陸奥守源頼義を援け、安倍氏を滅ぼした

その功によって武則は安倍氏の所領を合わせ、陸奥・出羽にまたがる北方の王者と
して君臨する。しかし、孫の真衡の代になって、一族の間に内紛が生じた。
真衡が権勢をほしいままにしたため、武則以来の宿老吉彦秀武や義弟清衡、異母弟
家衡らの憎悪を買い、争いとなった。

こうしたところへ永保三年(1083)秋、源義家が陸奥守として赴任してきて、一族
の争いに介入した。これより『後三年の役』の大乱が始まるのだが、義家はまず真
衡に味方して家衡、清衡を攻めた。だが、戦いの途中で真衡が病死し、戦いはいっ
たん治まった。ところが、今度は家衡と清衡の間がおかしくなり、家衡が清衡の館
を襲って清衡の妻子を殺すという事件が起こった。

義家は清衡を援け、義家の弟、新羅三郎義光も京都から参じた。一方家衡の沼の柵
は叔父の武衡が陸奥国から加わり、ここで全軍、再戦に備えて本拠の金沢柵へ移った
寛治元年(1087)九月、義家・義光は、大軍を率いて決戦を挑んだ。

こうして足掛け五年にわたる奥羽の大乱に終止符を打ったが、義家の動きは、結局
朝廷からも私戦と見なされ、何の論功行賞もなされなかった。そして、奥羽の地に
はひとり清原清衡が残り、やがて陸奥国の平泉に本拠を置いて、強力な支配権を
うちたてていく。すなわち、清衡は奥州藤原氏の祖であり、平泉に中尊寺を開いた
人物である。                 古城金沢柵と清原清衡より

築城者 : 清原氏 平安後期
所在地 :秋田県横手市金沢中野

№428

登城日 平成22年(2010)9月13日  作成日 平成22年(2010)10月30日

部下を監戦する『臆の座』のある帯曲輪

兵具倉跡の広い駐車場に二台の車

登城道の左にある説明板

金沢八幡宮へのゆるやかな道

城跡らしき登城道に

徐々に気が引き締まります

いよいよ本丸です

本丸に沢山の皇室の碑

剛の座

道路の反対側に西の丸道

西の丸

曇り空の東北の城巡りも終盤になってきました。後三年の役の決戦地ということで
駐車場に車を停め、車から降り一歩踏み出すと、すごいパワースポットです!

全身パワーを浴びながら登城道を進み、金沢八幡宮参道から右折して本丸に進みます
約12~3分で本丸に着きますが、途中足が踏み出せない箇所がありました。
後で調べると、臆の座のあった帯曲輪付近でしたね。

義家は開戦の時、部下を監戦するため、『剛の座』と『臆の座』を設けたらしい。
臆の座は最前線基地で、臆の座には座りたく無いから死にもの狂いで戦ったらしい。

帰ってきて金沢柵の本を読むと、再訪したい城ですね。東北にはもう一度行かないと!

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