日本城巡り

愛宕街道

清凉寺 〜 愛宕神社 二里(7.8km)


江戸時代の参詣の旅は、それぞれの地域での『講』を中心に行われており、愛宕参りも講が仕切って

お金を集め、そのお金で地域の代表者が出かけた。

ただし、毎年八月一日午前零時に行われる痛夜祭に参詣する『千日詣』は、その名の通り、

この日に参詣すれば千日の参詣に匹敵するといわれ、今でも前日の夕刻から沢山の人々が

長蛇の列をつくって登山する。

参詣者は火災除けの火伏せのお札と樒の枝を授けられ、持ち帰って神棚や門口に挿しておく。

樒は、元来は仏花だが愛宕神社の神花である。清凉寺から嵯峨鳥居本・清滝を経る約7.8kmの道である。

それほど身近な愛宕神社。そこに向かう道が『愛宕街道』だ。愛宕社参詣道ともいう。

天正十年(1582)五月、明智光秀は愛宕山上の白雲寺の威徳院で催された連歌会に出席。

すでに主君織田信長の暗殺を決意していた光秀は、愛宕大権現に神意を問う

おみくじを引いたが、凶と出てしまった。そこで三度も引きなおしたが、それでもやはり凶。

だが、光秀の決意は変わらず、連歌会で『時は今 あめが下しる 五月かな』と詠み、

主君への叛意を一句に託したという。その後すぐに、光秀は信長を本能寺で討ったのである

明智光秀

愛宕神社

清凉寺

愛宕街道地図

愛宕街道

作成日 平成十八年(2006)六月十四日

inserted by FC2 system