日本城巡り

尼崎街道

以前は海に近い街道として、大阪西部を通って兵庫県尼崎に通ずる道であったが、埋め立てなどで広大された

阪神間の工業地帯の中に埋没した形になってしまっている。生産活動の旺盛な工業地域として発展してきた

この辺りは、今でも工場事業所の多い所であるが、一部転出した工場跡地が住宅化するなど、さらに変化しつつある。

西区の江戸堀から土佐堀橋につづき、堂島大橋を渡って行くと、大橋西の福島四丁目に下福島公園があり、

その東部分に藤棚が整備され、藤庵の碑と野田の藤に関する由来記がある。

四百年来、野田は藤の名所として、吉野の桜に比肩すると伝えられてきたそうであるが、近世には次第に減少し、

太平洋戦争で完全なまで無くなり、今はこの公園内に一部復元されているほか、あちこちでわずかばかりずつ

移植されたりして、育成中のものが見られる程度となっている。

変わったことの今一つは、大正年代になって曽根崎川が埋め立てられている。その曽根崎川も十七世紀以前は

全く橋も渡しも無く、それは現存する堂島川もほぼ同様で、野田よりずっと東方の大川に架かっていた難波橋が

利用されていたようで、南北の交通も少なかった時代の事で、元禄年間十八世紀になって曽根崎が開発されてから

これらの川筋に次第に橋が架かり、中之島地区に諸藩の蔵屋敷が整い、経済活動とともに通行の経路も変化して

いったようである。今は埋め立てられた曽根崎川は道路になっていて、これを西に進み川に提であった道をたどると、

玉川一丁目に下の天神と称される天神社があり、境内に大阪府内では二番目に古い天文元年(1532)の道標がある。

阪神高速をくぐって玉川四丁目に入ると円満寺があり、その前に寺標と二十一人討死の標柱がある。

戦国時代、佐々木氏と日蓮宗徒に攻撃された証如上人を守り、討死した門徒二十一人の霊を祭っている。

玉川四丁目中央部の恵比寿神社前を曲がると角に各地を示す道標がある。

地下鉄玉川駅の東に戦国時代に野田城のあった所とされ、マンション建設中の前に小さい標示がある。

元亀元年(1570)三好山城主が築いているが、天正四年(1576)織田信長が石山本願寺を攻撃したとき

織田方の荒木村重に攻められ落城。のちに慶長十九年(1614)大坂方の大野道犬がここに籠もり徳川方に敗れる

野田三丁目から五丁目を経てJR環状線をくぐり此花区西九条に進み六軒家川の朝日橋を渡る。

六軒家川と正蓮寺川は変な形になっているが、新淀川改修前は海老江から大開町まで、中津川が流れていたものが

埋め立てられて、交流だけが残っているからである。梅香町中央部うを通って、住吉神社前を通り四貫島で

阪神西大阪線を横切り正蓮寺川の森巣橋を渡ると伝法町で、西に折れ酉島にでて、大浦渡しで西淀川に渡っていたが

伝法大橋が出来てからは国道の大橋を渡って福島に至る。伝法六丁目の正蓮寺の前に道標がある。

西淀川区福町の淀川北岸に沿って、百島大橋跡から西島川の西島橋を渡り、神崎川の城島小橋を渡り中島に至る。

川北小学校の東を川に沿って行くと、五社神社前から国道に出て、出来島大橋を渡り佃に入る。

旧道は西に迂回して左門殿川の辰巳橋で梅田街道に合流し、兵庫県尼崎市に入り中国街道に接する。


九条北小学校の道標

職員室まえから見た中庭の道標

西区役所の長堀通りに面して建っている道標

通行手形 平成十八年(2006)九月四日発行  作成日2006年9月3日  編集日2006年9月17日

昼過ぎ、九条北小学校に夕方に写真を撮らしてもらえるように電話を入れる。夕方5時半、九条北小学校正門前に到着。

再度電話を入れる。正門のインターホンで呼んで下さい。オートロックのドアーを開錠しますからとの返事を頂く。

車を降り、正門を開けドアーの前に行くと、先生がドアーを開け待っていてくれる。

中庭の道標の前まで案内して頂き、説明を受ける。また、資料があるから職員室まで来て下さいとの事。

写真を撮り終え、二階の職員室に行くと、目の前に道標が見える。いいアングルで4〜5枚の写真が撮れた。

職員室で資料を探して頂いたが、見つからず、西区役所のホームページに詳しく載っていますと情報を頂き

西区役所に行く。区役所の角に道標を確認。人通りが多く、シャッターチャンスが無い。10分。20分と時間が過ぎて。

辺りが暗くなりかけた時、人通りが切れ、すかさずシャッターを切る。良かった〜。車に飛び乗り、家路を急ぐ。

九条北小学校の先生方にお世話になりました。尼崎街道のページも無事作成できました ありがとうございました。

西区江戸堀〜尼崎大物

尼崎街道見取図

九条北小学校

西区役所

 九条北小学校の道標
左 あまがさき道
中山道
安治川
寛政四歳 玉子三月吉日再建

    西区役所の道標
  右四ツ橋  新町
南 すぐざこば 大海 安治川
   左西口の城 寺通 竹林寺
   右道頓堀 木津 なんば 住吉
西  すぐ四ツ橋 御城
   左新町南御堂 堂島 天満
   右 …………
北  すぐ堀江あみ陀 木津 なんば
   左四ツ橋 日本橋 天王寺
   右ざこば大海 安治川 天保山
東 すぐ西口の? 寺島 木津川
   左瓶橋幸町 前だれ島

お詫び

尼崎街道の道標が九条小学校にあるとの情報を聞き、8月26日に九条南小学校に電話で問い合わせる。

夏休みに居られた黒川先生が、中庭に道標らしき物はありますが確認は出来ていませんとの事。

9月2日の土曜日に写真を撮らして下さいの電話を入れる。

名前をお聞きするのを忘れてしまいましたが、歴史の好きな女性の先生に 中庭を案内して頂きました。

4時前に学校に着き道標を見ると、なぜか『大阪湾』の文字のみであった。

尼崎街道の文字が無く?、でも写真だけは撮っていた。

あとで調べるとこの地は、大阪湾を埋め立てた土地という事で

昭和16年に標示石を建てたとの事でした。九条には、


北・南・東小学校があることも、北小学校の先生に教わった。

九条南小学校の先生・学生の皆さん、お騒がせしました

九条南小学校の『大阪湾』の標示石

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