軍師 九州に出陣

天正四百三十四年(2007)正月十日〜十三日九州に出陣
作成日 平成十九年(2007)一月十八日
編集日 平成十九年(2007)二月十七日
再編集 平成十九年(2007)十二月三十二日

福岡城の櫓台


熊本城の大・小天守

島原城の天守

唐津城の天守

城主から一言
九州の城巡りをしたいと思っていたが、軍師に先を越されてしまった。
とくに、熊本城の宇土櫓を見たい!。

現在の城が建つ茶臼山には、中世にすでに千葉城と隈本城があり

出田氏・鹿子本氏・城氏・佐々木氏と城主を替えた後、

天正十六年(1588)に加藤清正を迎えました。清正は、

優れた土木治水の技術を発揮し、七年をかけて熊本城を築城。

慶長十二年(1607)のことです。

城郭の周囲   5.1km

面 積       98万u

櫓 ― 49    櫓門 ― 18     城門 ― 29

島原城は元和六年(1618)から松倉豊後守重政が、

当時森岳と呼ばれた高地を城のかたちに切りとって

石垣を積み、堀を掘って七年の歳月を費やして築いた。

現在は、天守閣がキリシタン史料並びに藩政時代の

郷土資料・民俗資料などが展示されている。

唐津城は、豊臣秀吉の臣 ”寺沢志摩守広高” が、

慶長七年(1602)から七ヶ年の歳月を費やして

同十三年に完成しました。

名護屋城の解体資材を用いたといわれています。

城の全域は約四十五ヘクタールありました。

寺沢氏に次いで、大久保・松平・土井・水野・小笠原

の諸氏が城主に任ぜられましたが、廃藩置県により

明治十年から本丸跡は現在の舞鶴公園となった。

慶長五年(1600)の関が原の合戦で功があり、

黒田孝高(如水)・長政父子の筑前入封が決まった。

まず、入ったのが名島城(福岡市名島)だった。

立花鑑載が築き、小早川隆景が改築した城である。

家康が一番警戒していた人物は黒田孝高だったのである。

なので如水はあえて天守を建てなかった。

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