軍師 九州に出陣
福岡城の櫓台
熊本城の大・小天守
島原城の天守
唐津城の天守
城主から一言
九州の城巡りをしたいと思っていたが、軍師に先を越されてしまった。
とくに、熊本城の宇土櫓を見たい!。
現在の城が建つ茶臼山には、中世にすでに千葉城と隈本城があり
出田氏・鹿子本氏・城氏・佐々木氏と城主を替えた後、
天正十六年(1588)に加藤清正を迎えました。清正は、
優れた土木治水の技術を発揮し、七年をかけて熊本城を築城。
慶長十二年(1607)のことです。
城郭の周囲 5.1km
面 積 98万u
櫓 ― 49 櫓門 ― 18 城門 ― 29
島原城は元和六年(1618)から松倉豊後守重政が、
当時森岳と呼ばれた高地を城のかたちに切りとって
石垣を積み、堀を掘って七年の歳月を費やして築いた。
現在は、天守閣がキリシタン史料並びに藩政時代の
郷土資料・民俗資料などが展示されている。
唐津城は、豊臣秀吉の臣 ”寺沢志摩守広高” が、
慶長七年(1602)から七ヶ年の歳月を費やして
同十三年に完成しました。
名護屋城の解体資材を用いたといわれています。
城の全域は約四十五ヘクタールありました。
寺沢氏に次いで、大久保・松平・土井・水野・小笠原
の諸氏が城主に任ぜられましたが、廃藩置県により
明治十年から本丸跡は現在の舞鶴公園となった。
慶長五年(1600)の関が原の合戦で功があり、
黒田孝高(如水)・長政父子の筑前入封が決まった。
まず、入ったのが名島城(福岡市名島)だった。
立花鑑載が築き、小早川隆景が改築した城である。
家康が一番警戒していた人物は黒田孝高だったのである。
なので如水はあえて天守を建てなかった。
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