明智光秀

清和源氏。美濃明智庄を領した土岐氏族の明智氏

明智系図は信憑性が低く、光秀の父親さえもはっきりしない。光秀自身の前半生も不詳だが、出身は美濃であろう。
比較的信頼できる『遊行三十一祖京畿御修行記』には、光秀は土岐一族であり、牢人して朝倉氏を頼り、
十年間越前に居住していたという。

太田牛一も『越前国へ羆越致奉公候ても無別条一僕の身上にて羆越信長公を奉憑一万の人持被成候』と
前歴を記している。おそらく弘治二年(1556)の長良川合戦の余波を受けて美濃を退去し、
朝倉氏を頼ったのであろう。いずれにしても信長に仕えるまでの光秀は『朝夕の飲食にさえ乏かりし身』で、
瓦礫のように沈淪していた。

当初は、足利義昭と信長に両属していたようだが、次第に信長に接近し、延暦寺焼き討ち後
近江志賀郡を与えられて坂本に築城し、織田家臣の中での地位を高めていった。
越前を領した柴田勝家さえ『明智出頭』と嫉視するほど急速に出世した。

天正三年(1575)には、惟任氏を賜姓され、日向守を名乗った。
この年から丹波攻めを開始したが、波多野氏の裏切りで敗北し、いったん撤退。
その後、天正六年から再征し、八上城に続き黒井城を陥落させた。
丹波攻めでは幾多の辛酸を舐めたが、翌七年十月、安土へ凱施し、丹波・丹後平定を報告。
翌年には信長自ら上洛途上、坂本城へ寄城して光秀を褒賞した。

翌年の佐久間信盛への折檻状でも、その働きを絶賛された。
この間、光秀は亀山城で長岡藤孝らを招いて落成記念の興行も行なっている。

山崎の戦いに敗れた光秀は、坂本城を目指したが、小栗栖の細道で小藪に潜んでいた落人狩りの百姓が、
たまたま繰り出した鑓に腰骨を突かれ落馬した。
最後を覚悟した光秀は、従者に頸を知恩院に持っていくように遺言
して果てた。


    頼重(初代)−頼典−光隆ー光秀ー十五郎

平成十九年(2007)九月十五日作成

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